古くからヨガや座禅などで
「呼吸に意識を向ける」ことで
心身を整える技法が知られてきました。
近年になって科学者たちは、
こうした呼吸法の効果に脳科学的な
裏付けを求め始めました。
かつて脳のリズムと言えば脳内部で
生み出される脳波(アルファ波やガンマ波など)が
注目されていましたが、
呼吸という身体のリズムが脳活動に
影響を与えるという視点が徐々に
注目を集めるようになったのです。
呼吸と脳のつながりに注目する動きは、
嗅覚の研究から始まりました。
動物は匂いを嗅ぐ際に鼻で呼吸し、
そのリズム(いわゆる「スニッフ(sniff)」)に
合わせて嗅球という脳部位で
神経活動の振動が生じることが
以前から知られていました。
しかし2010年代に入り、
嗅覚とは無関係と思われる脳領域でも
呼吸に同期した振動が見つかり始めます。
2014年にはマウスの体性感覚野
(ヒゲからの感覚を処理する皮質領域)で、
呼吸と連動したデルタ波やガンマ波活動が報告されました。
これは嗅覚や呼吸の制御に
直接関与しない領域でも、
呼吸リズムにロックした(同調した)脳波が
生じうることを示した先駆的な発見でした。
その後の研究で、
この「呼吸同期」現象は脳の
広大な領域に及ぶことが判明します。
2016年前後には、
マウスの海馬(記憶形成に重要な領域)で
呼吸に伴う独自のリズムが検出され、
従来知られていたシータ波とは異なることが示されました。
また前頭前野(意思決定や注意に関わる領域)でも、
呼吸に由来する約4Hzの振動活動が見つかかっています。
2018年には、
自由に行動するラットで嗅球の呼吸リズムに
さまざまな離れた皮質領域の活動が
位相同期していることが示され、
呼吸位相(吸う・吐くのタイミング)が
脳全体に広がるグローバルな
同期信号となりうることが示唆されました。
こうした個別の発見が積み重なり、
「呼吸のリズムが脳活動をグローバルに
調整している」という見方が強まってきたのです。
この流れを受け、
ブラジルのAdriano Tort博士ら国際チームが
2025年にまとめたのが
『Nature Reviews Neuroscience』
誌掲載の総説論文
「Global coordination of brain
activity by the breathing cycle」
(呼吸周期による脳活動の全球的協調)です。
本総説の目的は、
近年蓄積された呼吸と脳波・行動に関する
エビデンスを整理し、
呼吸リズムがどのように脳内の様々な
レベルの活動を同期させるか、
その生理学的な仕組みと意義を論じることにありました。
深呼吸一つで脳が覚醒する――
最新研究が示す呼吸術の科学
深呼吸一つで脳が覚醒する――
最新研究が示す呼吸術の科学 / 図1は、
呼吸というシンプルな身体リズムが
どのようにして脳の隅々まで波及していくかを
“ズームアウト”するかたちで示したものです。
まず最もミクロな視点では、
吸った瞬間に鼻粘膜が機械的に刺激され、
その信号が嗅球に届くと個々のニューロンの
膜電位がわずかに脱分極し、
スパイク(神経の「発火」)が起こりやすくなります。
これが細胞レベルの揺らぎです。
次に数百〜数千個のニューロンが集まる
局所回路のレベルに目を移すと、
それぞれの細胞が呼吸のタイミングで
同時に発火しやすくなるため、
デルタやガンマといった脳波の振幅や
位相が吸気・呼気で揺れ動きます。
さらに解像度を落として脳全体のネットワークを
俯瞰すると、
離れた領域同士の活動の「山」と「谷」が
呼吸ごとに揃い、
海馬と前頭前野、
扁桃体などが同じリズムで“会話”を交わしている
様子がわかります。
上の図は、呼吸リズムがニューロンから脳全体まで
様々なレベルの活動に影響を及ぼす様子を示しています。
上段に示した波形が呼吸(吸息・呼息)のリズムです。
このリズムに同期して、
細胞レベルでは単一ニューロンの膜電位が
変動し(スパイクと休止状態の繰り返し)、
ニューロン集団レベルでは多数の
神経細胞の発火タイミングが揃っていきます。
局所回路レベルでは、
脳波として観測されるゆっくりした振動
(例えばデルタ波)と高速の振動(ガンマ波)が
呼吸に合わせて振幅や位相を変化させます。
さらに脳全体のネットワークレベルでは、
離れた脳領域同士の活動が
呼吸の位相にしたがって同期し、
ネットワークのつながり方にもリズミックな
パターンが現れることが示されています。
言い換えれば、
吸って吐くたびに生じる鼻からの感覚刺激が
脳回路に波及し、
ニューロン集団を呼吸の周期に同期させつつ、
高周波の脳波(ガンマ波など)の
振る舞いや神経細胞同士の連携
(セルアセンブリの形成)、
脳領域間の情報伝達を調整していると考えられるのです。
具体的な実験結果も数多く報告されています。
例えば、
ノースウェスタン大学の研究では、
てんかん患者の脳内電極記録を用いて
人間の大脳辺縁系(扁桃体や海馬など)の
ニューロン活動が呼吸(特に鼻呼吸)に
同期して変動することが示されました。
興味深いことに、
この研究では呼吸の位相が人間の
認知・感情処理に影響を与えることも明らかになりました。
被験者に恐怖表情か驚き表情の写真を
一瞬見せてそれがどちらか判断させるテストでは、
鼻から息を吸い込んでいる瞬間の方が、
吐いている時よりも恐怖の表情を
素早く正確に見分けることができたのです。
また記憶テストでは、
吸気時に提示された物体の画像の方が
呼気時より思い出しやすいという結果が得られました。
しかし、
この効果は口呼吸の場合には消えてしまいました。
「吸う息と吐く息で脳の扁桃体や
海馬の活動に劇的な差が生じることが分かりました。
吸う時には嗅内皮質、扁桃体、
海馬といった大脳辺縁系のニューロンが
刺激されるのです」と研究者の一人である
クリスティーナ・ゼラノ氏は述べています。
この発見は、
吸気・呼気のリズムが人間の情動反応
(恐怖の察知)や記憶想起にまで影響し、
特に鼻呼吸が重要な役割を
果たしていることを示唆するものです。
呼吸が情動に及ぼす影響としては、
マウスの「恐怖凍り付き反応(フリーズ現象)」に
関する報告も興味深いでしょう。
怖い刺激に遭遇したマウスは身動きを止めて
固まりますが、
その最中、
前頭前野には約4Hzのリズミカルな活動
(4ヘルツの振動)が出現します。
この4Hzの脳振動は実は呼吸の位相と同期しており、
しかも鼻呼吸によって維持されていることがわかりました。
鼻腔を通さない呼吸ではこの前頭前野の振動は消失し、
恐怖によるフリーズ状態の持続も妨げられたのです。
さらに近年の研究では、
マウスが安全な環境でゆっくり呼吸している安静時には、
呼吸由来のゆっくりした振動が
脳内でより強く表れることも示されています。
このことは深くゆっくりした呼吸が
脳における呼吸同期シグナルを高めうる可能性を示し、
瞑想やリラクゼーションで「深呼吸」が
重視される理由を生理学的に裏付けるものかもしれません。
一方、
呼吸は記憶の形成や整理にも関与しているようです。
ある研究では、
マウスが睡眠中に呼吸リズムを通じて
海馬と前頭皮質の活動を同期させ、
記憶の定着を助けている可能性が報告されました。
通常、覚えたばかりの記憶は海馬に一時保存され、
睡眠中に脳全体(新皮質)へと
再配置(システム固化)されると考えられています。
この過程には海馬と皮質の同期した
活動(「会話」)が重要ですが、
マウスにおいて呼吸がちょうどメトロノームのように
海馬と前頭前野のリズムを同調させ、
記憶固定を手助けしている可能性が示唆されたのです。
このように、
本総説がまとめた多くの実験結果は
「呼吸が全身に酸素を送るだけでなく、
脳内の情報処理や状態維持にも
リズムを与えている」ことを示しています。
しかもその効果は種を超えて普遍的です。
ヒトを含む様々な哺乳類で、
呼吸のリズムに同期した神経活動が観察されており、
それは延髄など呼吸中枢や嗅覚系だけでなく、
情動や認知を担う高次の脳領域にも及んでいます。
呼吸が速くなれば脳も広範に速いリズミックな
活性化が起こり、
呼吸がゆっくりになれば脳波も落ち着く――
そんな全身的なリンクが、
生物に共通する基本原理として存在しているようなのです。
“脳メトロノーム”としての呼吸
応用は瞑想から仕事術まで
“脳メトロノーム”としての呼吸——
応用は瞑想から仕事術まで
呼吸によって引き起こされるこの
「脳のグローバル同期現象」は、
どのような意義を持つのでしょうか。
筆者らは論文内で、
「吸う・吐く」という呼吸のリズムが進化を
通じて脳内ネットワークの機能を形作ってきた
可能性に言及しています。
呼吸は生命維持に不可欠な
根源的リズムであり、
種を超えて存在する現象です。
そのリズムが全身に影響を及ぼすよう
生物は設計されてきたと考えれば、
脳も例外ではありません。
呼吸によるリズム信号は、
全脳に一種のタイミング基準(グローバルな拍子)を
与えることで、
各部位の活動を協調させる役割を
果たしているのかもしれません。
例えば、危険を察知して呼吸が荒く速くなれば、
脳の複数領域が同じ速いテンポで連動して働き、
瞬時に戦闘モードへと切り替わる。
一方、安静時にはゆっくりした呼吸が
脳全体を落ち着いたペースに揃え、
記憶の整理や休息に適した
状態を作り出す、といった具合です。
この仮説は、
呼吸が感情や認知に与える影響とも合致します。
総説によれば、
呼吸と脳機能の関連を突き止めるエビデンスは
既に数多く揃っていますが、
「それが行動や認知、情動のどのような
変化につながるのか解明することが
今後の課題だ」と著者のトート博士も述べています。
しかし一方で、
応用の可能性も見えてきました。
たとえば2016年の研究では、
呼吸に意識的に注意を向ける
マインドフルネス呼吸瞑想によって
扁桃体と前頭前野の結びつきが強まり、
情動コントロールが向上することが報告されています。
これは不安やストレスを感じた際に
「深呼吸すると落ち着く」といった
経験則を裏付ける神経基盤と言えるでしょう。
また、
呼吸が脳の広範囲を同期させ
認知機能を高めるのであれば、
仕事や勉強の前に数分間の呼吸エクササイズを
行うことで集中力や記憶力を
ブーストできる可能性も考えられます。
事実、
前述のゼラノ氏らの研究では鼻からの
吸息時に認知性能が向上することが示されており、
鼻呼吸を意識することで脳の
情報処理効率を高められるかもしれません。
総説のタイトルにある
「グローバル(全球的)な協調」という言葉どおり、
呼吸は脳全体の協奏を司る指揮者の
ような存在だという視点が、
今や現実味を帯びています。
普段は意識しない呼吸ですが、
そのリズムに耳を傾け制御することが、
脳を最適な状態に
チューニングする鍵になるかもしれません。
科学者たちは今後、
呼吸による脳同期が具体的に集中力や創造性、
メンタルヘルスにどう活かせるかを解き明かしていくでしょう。
もしかすると、
「全集中の呼吸」はフィクションの中だけの
奇想天外な技ではなく、
科学が認めつつある脳と体を繋ぐ
自然のメカニズムなのかもしれません。
<参考:>