【神様が味方する人の習慣】
「あたたかい言葉」
「やさしい言葉」
「思いやりに満ちた言葉」
を言うと力がみなぎるらしい
2017年の発売以降、
今でも多くの人に読まれ続けている
『ありがとうの魔法』。
「言葉」には、神様が宿っているらしい
「愛語」という言葉は、
良寛和尚が好んで使っていたと言われています。
良寛和尚の「愛語の心」とは、
こういうものだと聞きました。
「自分は貧しいひとりの修行僧なので、
人に与えるもの、あげるものが何もない。
だからせめて、心をあたたかくするような、
心を安らげるような『言葉』をあげたい。
それならいくらでもあげることができるから」
良寛和尚は、
自分の口から出てくる言葉を
「あたたかい言葉」
「やさしい言葉」
「思いやりに満ちた言葉」
にしたいと思っていたようです。
言葉には、どうも、
すごい力が宿っているようです。
「Oリング(オーリング)」という実験があります。
自分の利き手の手のひらを上に向け、
親指と人差し指でアルファベットの「O」の形をつくります。
「つらい」「苦しい」「つまらない」と言ったあとに
(誰かに言ってもらったあとに)、
Oリングが開かないように指に力を入れ、
誰かに開けてもらいます。
開ける人も、両手にOリングをつくり、
開けられる人のOリングに通して、
左右に引っ張ります。すると、
なぜか力が入らずに、
簡単に開けられてしまいます。
その反対に、
「嬉しい」「楽しい」「幸せ」と言ったあと
(誰かに言ってもらったあと)は、
なぜかOリングは、なかなか開きません。
「つらい」「苦しい」「つまらない」と言うと
(言われると)力がシュンと抜けてしまい、
「あたたかい言葉」
「やさしい言葉」
「思いやりに満ちた言葉」
を言うと(誰かから言われると)、
筋肉や細胞に力がみなぎるらしいのです。
日本の神道には
「言霊」という概念があります。
「言葉には神が宿っている」という考え方ですが、
私たちは、普段、使っている言葉のひとつ1つに、
相手に大きな影響を与える力(神)が
宿っていることを忘れていたのかもしれません。
良寛和尚は超能力的な解釈から
「愛語」に至ったわけではなく、
与えるものが何もなかったから
「愛語の心」に行き着いたのだと思いますが、
「人をシュンとさせる言葉は使わない」という思想は、
「宇宙的事実を読み取っていた」とも解釈できるでしょう。
京都に、空也上人の木像があります。
木像の口から細い板が出ていて、
その上に、小さな仏様が何人も立っています。
説明によると、
「空也上人の口から発せられるひと言ひと言が、
すべての人を救いに導く『仏』であった」というのです。
私はこれまで、
「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」を言うことは、
「悪臭を放つ花の種を蒔くこと」と
同じだと考えていましたが、
一歩進んで、
自分の口から発せられる言葉をすべて、
「あたたかいもの」
「勇気づけるもの」
「安らげるもの」
「幸せを感じさせるもの」
「喜びを与えるもの」にできたらと思います。
そうすれば、
「芳香を放つ花の種を蒔く」ことにもなるでしょう。
「悪臭」の中で生きるか、
それとも「芳香」の中で生きるか……。
芳香の中で生きるほうが、
楽しそうです。
「言葉には『神』が宿っている」という考えは、
「言葉には『気』が込められている」
という考えでもあります。
だとすれば、
人の心を明るくする気を込めたいものです。
人に対して、
「愛語」を考えるだけでも、
生活が変わってくるような気がします。
神様が味方をしてくれる人になる習慣