私たちの体も、机も、夜空の星も、
細かく砕いていけば原子になり、
原子の中心には陽子や中性子が詰まっています。
そしてその陽子や中性子も、
さらに小さな「クォーク」という粒が
3つ集まってできています。
ところが、
クォークをいくら集めても、
それだけでは陽子や中性子という
形あるまとまりになりません。
バラバラのクォークを固く貼り合わせる
”接着剤”のような結びつける力の役割を
果たす粒子(グルーオン)が働いて初めて、
陽子や中性子が形になり、
原子が、
そして私たちの世界ができあがります。
つまり万物は
「物質を作る粒子」と「力を伝える粒子」の
セットでできているのです。
より砕けて言えば
「材料」と「接着剤」のセットとも言えるでしょう。
実際、
力を伝える粒子である「グルーオン」という
名前自体も英語で「接着剤」の意味をもつ
グルー(glue)が含まれています。
そしてこの接着剤には、
他の粒子にない奇妙な性質が
あると考えられていました。
それは「接着剤自身が、
接着剤にくっつく」ということです。
たとえば光(光子)は電磁気の力を運びますが、
光同士が直接くっついて塊になることはありません。
しかしグルーオンは自分同士でも結びつくため、
理論上は材料のクォークが1つもないまま、
接着剤だけが丸まった塊が存在できてしまうのです。
この「純粋な力の塊」こそがグルーボールです。
しかし困ったことに、
グルーボールは普通の粒子とよく似た姿で現れるため、
決定的な見分け方がなかなかありません。
そんな中で浮上した最有力候補が、
2011年に北京の実験で発見された粒子「X(2370)」でした。
(※Xは「正体不明」を、
数字はおおよその重さを表しています。)
その重さが、
理論の予言するグルーボールの範囲に
ぴったり収まっていたのです。
ただこのときは、
「本物のグルーボールなのか、
それともクォークでできた普通の粒子なのか」
という区別がつかないままでした。
体重だけで誰かを決められないのと
似ていると言えるでしょう。
そこで研究チームは、
候補止まりの状況を打ち破るべく、
「クォークを含まないこと」をあぶり出す
検証に挑みました。
前例のない形態の物質
X(2370)の主成分がグルーボールならば、
私たちは初めて
「力そのものが塊になった物質」を
手にしたことになります。
物を押す、引く、貼り付ける——「力」とは普通、
物質と物質の間ではたらく作用であって、
それ自体が”モノ”になるとは想像しがたいものです。
ところが自然界は、
力を伝える粒子だけを集めて1個の粒子を
組み上げるという、
直感を裏切る芸当を許していました。
これまで積み上げられた証拠によれば、
X(2370)の質量は陽子のおよそ2.5倍にあたります。
物質の材料をほとんど含まないのに、
物質の代表である陽子の2.5倍もの
重さがあるわけです。
研究チームのリーダーの一人で
南京大学のジン・シャン氏が、
これを「前例のない形態の物質」と
呼ぶのはそのためです。
論文でも、
グルーボールが主成分でなければX(2370)の
性質すべてを自然に説明できず、
他の解釈は現状いずれも不利で
あると記述されています。
もっとも、結論の言い方が「主成分」に
とどまっているのには理由があります。
「クォークを1つも含まない」というのは、
あくまで教科書に描かれる理想の
グルーボールの姿です。
量子の世界には、
性質のよく似た粒子同士は互いに混ざり合うことを
避けられないという法則があります。
このためグルーボールも、
現実の自然界では、
ごくわずかにクォークの成分と混ざった姿でしか
存在できないと考えられているのです。
自然の法則が最初から
「純粋なまま」を許していない、
ということです。
そして皮肉なことに、
この混ざりもののおかげでグルーボールは
生まれやすくなり、
人類に見つけてもらえるチャンスが
増えていたと考えられています。
それでも、
純金と呼ばれる指輪に微量の別の金属が
混ざっていても金の指輪であるように、
本体がグルーボールであることは揺らぎません。
ただし、
その混ざり具合まで正確に突き止めるには、
追加の衝突実験が必要です。
こうして半世紀ごしの追跡劇は、
いよいよ大詰めを迎えています。
グルーボールである証拠がここまで
積み上がった候補は、
X(2370)が初めてで、
研究チームも「約50年にわたるグルーボール探索から
得られた最も明確な実験結果であり、
グルーオンが結合して新たな形態の物質を
形成するという長年の理論的予測を
裏付けるものだ」と述べています。
これまで物質の主役はいつもクォークであり、
グルーオンはそれを繋げる力として裏で
クォークを支える黒子の立場でした。
その黒子が「力が塊になった粒子」として、
いままさに姿を現しつつあるのです。
私たちが「モノ」と呼んできたものの定義は、
思っていたよりずっと広かったのかもしれません。




