2024/5/4
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外国人も驚嘆! 江戸時代の社会インフラは 当時の欧米先進国よりも 日本が遥かに優れていた |
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外国人も驚嘆!江戸時代の社会インフラは当時の欧米先進国よりも日本が遥かに優れていた<ins class="adsbygoogle" data-ad-client="ca-pub-0391065545875561" data-ad-slot="3441426238" data-ad-format="auto" data-full-width-responsive="true" data-adsbygoogle-status="done" data-ad-status="filled"> 「インフラ先進国」だった 江戸時代の日本 19世紀の日本といえば、 鎖国によって長らく海外との 交流が制限されていたため、 ヨーロッパと比べて 文化面や技術面における後進国だったという イメージが根強く残っています。
これは今でもヨーロッパの人々だけではなく、 日本人でも漠然とそう考えている人が多くいます。
一方のヨーロッパは、 産業革命などによって科学技術や工業が発展して 社会基盤が整っており、 洗練された文明国だったという 印象を持つ人はたくさんいることでしょう。
しかしそうしたイメージや印象は、 ほとんどが間違いです。
技術的な違いこそあれ、 日本、 特に徳川幕府のお膝元である江戸においては、 欧米諸国に引けをとらないインフラ整備が 行われており、
社会システムおよび教育システムが しっかり機能していたのです。
それは決して日本から見た 「自国びいき」の視点ではなく、 現に当時の欧米知識人も 日本のそうしたシステムに驚嘆しています。
今回はそうした内容を見ていきましょう。
驚くべき水道設備当時の江戸の街のインフラで とくに注目に値するのは、 水道設備です。
もともと江戸の地下水は塩分が多く、 飲料として使うことはできませんでした。
そこで、 上水道の整備を計画したのが かの初代将軍・徳川家康です。
彼はまず井の頭池を水源とする 水路を掘削させて、 市中への給水を可能にしました。
これが、 玉川上水と並んで 「二大上水」のひとつとされている、 かの神田上水です。
神田上水の上部には、 水を通すために懸樋(かけひ)という 水道橋が架けられました。 ここから運ばれた水が江戸の人々の 飲み水となったのです。
その後も、 人口の増加にともなって上水道は 増やされていきました。
江戸時代に整備された 上水道の総延長は 世界最大級の規模 だったと言われています。
また上水道だけではなく、 江戸では下水道も整備されていました。
敷地区画の境界部分に下水溝がつくられ、 雨水や生活排水は下水溝を通って 堀・川から海へと流されていたのです。
特筆すべきは、 この下水道は糞尿用には 利用されていなかったという点でしょう。
江戸の街の庶民の住居だった 長屋のトイレは共同でしたが、
小と大で区別され、 どちらも農村の肥料として リサイクルされていました。
よって排泄物は下水道から海へ 投棄されることはなかったのです。
現代風の言い方をすれば、 当時は環境に優しい、
エコなリサイクルシステムが採用されていた ということになるでしょうか
(もっとも糞尿を利用していたため、 畑の野菜を生で食べる習慣は 根付かなかったなどのデメリットもありました)。
幕末に日本を訪れたペリーは、 この上下水道システムに対して 「アメリカよりも進んでいる」と 驚嘆の声を残しています。
英外交官もびっくりの街道また江戸時代は街路や街道も きちんと整備されており、 そのおかげで人や物・情報の流れも スムーズでした。
例えば 東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の いわゆる五街道は、 江戸時代中期に整備されたものです。
これらの街道には宿場町が置かれ、 旅人や物資の送り継ぎポイントとして 機能していたのはご存じの通りです。
当時、 お伊勢参りなどの旅行ブームが起きたのも、 道路網が整備されていたからこそだと言えるでしょう。
こうした社会システムの整備は、 現代人の私たちにとっては当たり前ものです。
しかし、 幕末に日本を訪れた外国人からすれば、 ここまできちんとインフラ整備が行われているのは 驚嘆に値することでした。
イギリス人外交官のオールコックは、 滞在記の中でこう述べています。
「よく手入れされた街路は、 あちこちに乞食がいることを除けばきわめて清潔で、 汚物が積み重ねられて 通行をさまたげるというようなことがない」
「これは私がかつて訪れたアジア各地や ヨーロッパの多くの都市と、 不思議ではあるが気持ちのよい対照をなしている」。
識字率をめぐって
ここまでは当時の日本の 社会インフラのことを説明しましたが、 それでは教育インフラについてはどうでしょうか。
これは有名な話ですが、 当時、 教育インフラが全国に広まっていたことについても 外国人たちは驚嘆しています。
西洋を圧倒!江戸時代に日本が世界屈指の「識字率」を誇っていた理由とは?「文字の読み書きができることは当たり前」 そんなふうに思ったことはありませんか? この、文字の読み書きができることを 「識字」といい、 読み書き能力をもつ15歳以上の成人が 同年齢の人口にしめる割合…
トロイ遺跡の発掘で有名な、 『古代への情熱』の著者でもある シュリーマンは 慶応元年(1865)に来日していますが、
この時、 学習塾である江戸の寺子屋を視察してこう述べています。
「自国語を読み書きできない男女はいない」。
ただ、 実際には簡単な読み書きしかできない者が多く、 現在では「昔からの日本人の識字率の高さ」 については疑問が持たれているのも事実です。
その点は、 私たちはこれまで過大評価してきた傾向が あったかも知れません。
ただ、それはそれで、 過大評価の反動としてまた 極端に過小評価する説 (日本の識字率は非常に低かった、など)が 出てくる可能性もあり、 そのあたりの真偽については 今後の研究の成果を待ちたいところです。
ともあれ、 徳川時代からある程度の教育インフラが 整備されていたことは間違いなく、 それが明治政府の教育政策の 基礎になっていったと言えるでしょう。
参考資料:
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