電子化して不老不死となった脳、
意識をデータ化して取り出せる脳、
記憶が書き換えられる脳、眠らなくてもよい脳、
「心」をもった人工知能。
SF作品において「脳」は定番のテーマであり、
作家たちはもてる想像力を駆使して、
科学技術が進んだ未来の「脳」の姿を描いてきました。
SF作品に描かれてきた、
それらの「脳」は、
本当に実現する可能性があるのでしょうか?
脳の覚醒にかかわるオレキシンや、
「人工冬眠」を引き起こすニューロンを
発見した神経科学者で、
大のSFファンでもある著者が、
古今の名作に描かれた「SF脳」の
実現性を大真面目に検証する
なぜ不可能なのか』。
注目の本書から、興味深いトピックをご紹介します。
今回は、
宇宙環境がヒトの心身にいかに過酷か、
そしてその悪影響を抑えるために、
SFでしばしば登場する「人工冬眠」が、
予想以上に有効な手段として注目を集めている、
というトピックをご紹介していきます。
真正面のバーの窓越しに、
さっきから三通りに変わる広告サインが見えていた。
まずそれは“財産は睡眠中に創られる”ではじまり、
“苦労は夢とともに消える”と変わって、
それが消えると、こんどは二倍ほどもある大きな文字で、
ミュチュアル生命
冷凍睡眠保健(コールドスリープアシュアランス)
となるのだ。
ロバート・A・ハインライン『夏への扉』(1957年)
「人工冬眠」や「冷凍睡眠」は、
SF作品では、宇宙や未来への旅を
テーマにしたものによく登場する。
ロバート・A・ハインラインの小説『夏への扉』(1957年)も、
「睡眠状態による未来への旅」を扱った
タイムトラベルSFの傑作であり、
そのロマンティックなストーリーは長い間、
ファンを魅了しつづけている。ネコ好きにもおすすめ。
「人工冬眠」の研究目的…
意外だけど、納得の理由の数々
あなたは「人工冬眠」という言葉から
何を連想するだろうか?
宇宙旅行をイメージされる方も多いだろう。
宇宙船内で乗組員が何年も眠ったまま過ごしている
「コールドスリープ」は、
SF映画ではおなじみの光景だ。
そこには、
宇宙旅行におけるコールドスリープの役割についての、
暗黙の了解がある。
すなわち「生体活動を止めて老化の速度を遅くし、
長期間の宇宙旅行に対応する」というものだ。
人工冬眠をすると年をとらなくなるため、
一種の「未来への旅」が可能になる、
という設定も、SF作品には多い。
冒頭で紹介した『夏への扉』も、
その一つだ(ただし、人体を凍結させて機能を
完全に止めてしまう「冷凍睡眠」と、
動物にみられる冬眠を人体へ応用する
「人工冬眠」とは分けて考える必要がある)。
しかしながら、
老化の速度を遅くすることは、
冬眠状態がもたらすメリットのごく一部にすぎない。
人類が何光年も先の、
太陽系の外をめざせるようになるのは、
かなりの未来になるだろうが、
近未来の実現に向けて研究が進められている
火星の有人探査でも、
人工冬眠の必要性は議論されているのだ。
そして、
その目的は老化を遅くすることではないのである。
もっといえば人工冬眠は、
宇宙旅行のためだけに研究されているのでもない。
じつは、冬眠のような状態を誘導することは、
とくに医療の現場において強く望まれている。
さらに、
長期にわたって生体機能のスピードを
スローモーションにすること、
もしくは止めてしまうことが可能になれば、
宇宙旅行や医療にかぎらず、
さまざまな分野で革命的な変化を
もたらすだろうと期待されているのだ。
ヒトの心身を徐々に、
しかし確実にむしばんでいく
宇宙空間
地球外の天体に行ったことがある人は、
アポロ計画で月面に降り立った12名だけだ。
人類にとって、
地球外の惑星への有人旅行は、
未踏の地への挑戦である。
火星への旅にまつわる困難さを挙げていったら、
見るのも恐ろしいリストができあがるにちがいない。
月は地球からわずか38万キロという
“至近距離”にある衛星にすぎないが、
惑星となると距離のスケールが違う。
火星は地球に最も近い惑星の一つだが、
地球に最接近したときでも5700万キロメートルの彼方にある。
最も効率よい航行スケジュールを立てても、
往復には650日ほどかかると考えられているのだ。
すでに人類は、
太陽系内の複数の惑星に、
無人探査機を送り込むことには成功している。
だが有人の宇宙探査となると、
桁違いに難易度が増す。
いうまでもなく、
乗組員の生命を維持する必要が生じるからだ。
さらに、地球に帰還しなくてはならないことが、
難易度を飛躍的にアップさせる。
火星に到着するには、
現在の化学ロケットでは
片道で300日程度かかるので、
莫大な燃料が必要になる。
打ち上げ前後のロケットの重量の比、
つまり燃料の重さが宇宙船全体の
質量に占める割合を「質量比」というが、
乗組員を乗せて火星を往復するために
必要な質量比は、
片道旅行の2乗となる。
2倍ではなく2乗なのだ。
さらには乗組員のための居住空間と、
それにともなう設備、
食料や水などのリサイクル装置など、
生命と健康を維持するためのハードウェアが
大きな足かせになる。
こうした問題が、
片道旅行とは違う有人探査では、
物理的にきわめて高いハードルになってくる。
生物学的な側面からはどうだろう。
地球上で生まれ、
何十億年という歳月をかけて
地球環境に特化して適応し、
進化してきた地球生物にとって、
宇宙は想定外のきわめて過酷な環境だ。
もちろん、人類にとっても例外ではない。
酸素も重力もないかわり、
遺伝子やタンパク質にとって危険な
電離放射線(宇宙線)が飛び交っている。
無重力環境に長く滞在すると、
筋肉や骨密度、心肺機能は著しく低下する。
血流の変化によって循環器系や免疫系ほか、
さまざまな臓器への悪影響も懸念される。
そして神経系でも、
平衡感覚をつかさどる前庭系をはじめ、
感覚系が影響を受ける。
これらへの対処方法も、
十分に明らかになっていない。
神経系には、
環境に適応するために可塑性という機能があり、
循環器系や他の臓器も、適応はしていくだろう。
しかし、無重力環境に適応してしまうことは、
地上に戻ったときには、
逆にリスク・ファクターとして働く。
その最も深刻な問題の一つとして考えられるのが、
閉鎖空間の中で社会と隔絶され、
少人数で長期間にわたる共同生活をすることによる、
重度の精神的ストレスである。
このように宇宙空間は、
ヒトの心身を徐々に、
しかし確実にむしばんでいくのだ。
宇宙旅行の問題を
一挙解決できる可能性
そこで、これらの問題を一挙に解決するために、
アメリカ国防総省や、アメリカ航空宇宙局(NASA)、
欧州宇宙機関(ESA)などで積極的に研究されているのが、
乗組員の生理機能を極端に低下させ、
かつ意識をも低下させてしまう
人工冬眠の技術なのである。
そのような状態が実現できれば、
食料や水、酸素の供給に関わる物資や設備、
居住空間など、
燃料スペース以外の質量を大幅に削減することができる。
生物学的にみても、
生体の代謝を落とすことは、老化など、
マイナス要因となる生体機能の
スピードを落とすことが期待され、
宇宙旅行がもたらす悪影響の問題を
一挙に解決できる可能性がある。
代謝を落とすことは、
全身の細胞分裂の速度を下げることにもつながる。
宇宙空間では地上の100倍の宇宙線に
さらされるといわれているが、
宇宙線が遺伝子にダメージを与えるのは
細胞分裂中の細胞であるため、
冬眠により細胞分裂の速度を落とすことができれば、
そのダメージを抑制することにもつながる。
また、冬眠中の動物は、
ほとんど動かずに冬を越すにもかかわらず、
筋肉の委縮や骨量の低下がみられないことが知られている。
筋委縮も骨量低下も、
じつは積極的な代謝過程によるものであり、
全身の代謝を下げてしまえば、
そのスピードを大きく減少させることができる。
つまり人工冬眠にも、
同様の効果が期待できるというわけだ。
このように冬眠様の状態をつくることは、
過酷な宇宙環境にさらされることによる
生体へのダメージも、
大きく軽減する期待がもてるのである。
このような近くの惑星に行くための
有人宇宙探査において、
冬眠は大きなメリットとなるが、
はたしてどこまでわかっているのだろうか。
そこで、ヒトと同じ恒温動物で、
冬眠する動物たちの冬眠のしくみを見てみたい。
じつは、彼らには、
通常の恒温動物では真似のできない、
高度なエネルギー節約機構が備わっているのだ。
<参考:櫻井 武・医学博士>